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金沢地方裁判所 昭和48年(わ)75号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

(理由の目次)

((本件公訴事実及び罰条))・・・123

((公訴事実に対する判断))・・・123

第一  予士校入校関係・・・124

一、予士校入校の有無・・・124

1 昭和二〇年六月以降における予士校入校の可能性・・・124

(一) 予士校生徒採用制度の概要・・・124

(二) いわゆる「六一期生」としての入校の可能性・・・124

(三) 「六一期生」の次期に採用される生徒(いわゆる「六二期生」)としての入校の可能性・・・125

(1) 召募試験の実施・・・125

(2) 召募試験の合否の決定時期等・・・125

(3) いわゆる早期着校・・・126

(四) 被告人の予士校「六二期生」としての召募試験合格及び早期着校の有無・・・126

(1) 被告人の予士校受験・・・126

(2) 被告人の予士校入校・・・126

(Ⅰ) 被告人の供述・・・126

(Ⅱ) 検察官の主張の検討・・・127

(イ) 着校通知の関係書類について・・・127

(ロ) 合格通知者について・・・127

(ハ) 公用腕章を着用しての単独上京について・・・127

(ニ) いわゆる「期」について・・・128

(ホ) 被告人の予士校生活に関する記憶について・・・128

(ヘ) 疎開先について・・・129

(ト) 復員について・・・129

(チ) まとめ・・・130

(五) 被告人が予士校に在校したと主張する時期における被告人の所在・・・130

(1) 検察官の掲げる証拠の検討・・・130

(Ⅰ) 安江喜久男証言・・・130

(Ⅱ) 谷田信次の検察官に対する供述調書・・・130

(Ⅲ) 山本利男証言・・・130

(Ⅳ) 萩野質証言・・・131

(Ⅴ) その他・・・131

(2) その他の証拠の検討・・・131

(3) まとめ・・・131

(六) 兵籍の不存在・・・131

(七) まとめ・・・133

2 予士校入校の法的意味・・・133

二、予士校中退の虚偽性の認識・・・133

三、まとめ・・・135

第二  専検関係・・・135

一、公職選挙法二三五条一項にいわゆる「経歴」と専検合格・・・135

二、被告人の専検合格の有無・・・135

1 争点の整理・・・135

2 専検合格の意義及び基本資料・・・135

3 専検受験及び一部科目合格の可能性・・・136

三、北国新聞記者に対する専検合格の発言・・・137

1 被告人の発言状況とその意味・・・137

2 発言内容の虚偽性・・・137

四、専検合格の公表行為及び公表意思の存否・・・137

1 「虚偽の事項を公にした者」の意義・・・137

2 被告人の発言についての法的評価・・・138

五、まとめ・・・138

第三  結び・・・138

((公訴権濫用に関する判断))・・・138

(本件公訴事実及び罰条)

本件公訴事実は、

「被告人は、昭和四七年八月六日施行の石川県小松市長選挙に立候補したものであるが、当選を得る目的で、真実は陸軍士官学校に入校したことも、専門学校入学者検定規程による試験検定に合格したこともないのに

(一)  同年七月一五、六日ころ、同市中町地方教育労働会館内小松能美地区労働組合事務所において、右選挙に関する記事を取材中の北陸中日新聞社の記者からの依頼に応じ、被告人の経歴を「陸軍士官学校中退」と記載した選挙カードを同記者に手交して、その旨取材させ

(二)  前記情を知らない被告人の選挙運動員出口久一をして、同月二七日、同市小馬出町小松市選挙管理委員会事務所において、同委員会係員に対し「陸士中退(終戦のため)」と申告させ、同委員会をして即日その旨を立候補届出速報により、同所小松市役所内記者クラブで前記選挙に関する記事を取材中の北国、北陸中日、朝日、毎日、読売、サンケイ等の各新聞社の記者に告知させて、その旨取材させ

(三)  同月末頃、前記地区労働組合事務所において前記選挙に関する記事を取材中の、北国新聞社の記者に対し「専門学校入学者試験検定に合格した」旨申し向けて、その旨取材させ

よって、北国新聞社発行の北国新聞の同年七月二七日付夕刊第一面、同月三〇日付朝刊第一三面、同年八月五日付朝刊第三面、中日新聞北陸本社発行北陸中日新聞の同年七月二七日付夕刊第一面、同月二八日付朝刊第一面、同月二九日付朝刊第一一面(加賀版)、同年八月六日付朝刊第一面、朝日新聞大阪本社発行朝日新聞の同年七月三〇日付第一六面(石川版)、毎日新聞大阪本社発行毎日新聞の同月二八日付第一四面(石川版)、同年八月五日付第一四面(石川版)、読売新聞北陸支社発行読売新聞の同年七月二八日付第二一面(石川読売)、サンケイ新聞大阪本社発行サンケイ新聞の同月三一日付第一四面(北陸ニュース)に、それぞれ、陸軍士官学校を中途退学した旨、また北国新聞社発行北国新聞の同年七月三〇日付朝刊第一三面に専門学校入学試験検定に合格した旨の各候補者紹介記事を掲載させ、これらの新聞をそれぞれの新聞発行日に石川県小松市内の購読者に頒布させ、もって自己の公職の候補者としての経歴に関し虚偽の事項を公にしたものである。」

というものであり、右行為が公職選挙法二三五条一項に該当するというのである。

(なお、公訴事実中にいわゆる「陸軍士官学校」及び「陸士」とあるのは、いずれも「陸軍予科士官学校」を指称するものとして使用している。)

(公訴事実に対する判断)

本件公訴事実中、被告人が石川県小松市長選挙に立候補したこと及び当該各新聞の紙面に右記載内容の候補者紹介記事が掲載されて頒布されたことは、いずれも当裁判所で取調べた各証拠によってこれが優に認められ、この点については、被告人及び弁護人ともに争わないところであるが、その余の点については、被告人及び弁護人らにおいて、次のように主張してこれを終始否認しているものである。

すなわち、被告人及び弁護人らの主張は、要するに、

1  被告人が「陸軍士官学校中退」、実質は「陸軍予科士官学校中退」及び「専門学校入学者検定規程による試験検定に合格」したことはいずれも事実である。

2  被告人には、右の各事実が虚偽であることの認識がない。

3  公訴事実中の(一)ないし(三)の各行為は、いずれも公職選挙法二三五条一項所定の経歴公表行為には該当せず、また、同(三)については被告人にその公表意思すら存在しない。

4  被告人には当時右公訴事実記載のような「当選を得る目的」がなかった。

等というものであり、結局、本件については、公職選挙法二三五条一項のいわゆる「虚偽経歴公表罪」の構成要件事実を証明するに足りる証拠がないから被告人は無罪であるというに帰する。

そこで、以下「陸軍予科士官学校への入校」関係と「専門学校入学者検定規程による試験検定の合格」関係に分け、その各争点について、逐一検討を加えることとする。

第一陸軍予科士官学校入校関係(公訴事実中(一)及び(二)に関する部分)

一、陸軍予科士官学校(以下「予士校」という。)入校の有無

1 昭和二〇年六月以降における予士校入校の可能性

《証拠省略》によると、被告人は、昭和二〇年二月一〇日、香川県小豆島の陸軍船舶特別幹部候補生隊(以下、同候補生を「特幹生」、同候補生隊を「特幹隊」という。)にその第三期生として入隊し、同所において引き続き教育訓練を受け、同年五月二九日ころその訓練等を終了し、翌六月初めころ和歌山県和歌浦の船舶工兵第九連隊補充隊(以下、「船工九補」という。)に転属したことが認められる。

ところで、被告人は、船工九補在隊中の同年六月に予士校の召募試験を受験してこれに合格し、同校に入校した旨主張するので、当時の予士校生徒採用制度一般及び具体的な被告人の予士校入校の有無について更に検討する。

(一) 予士校生徒採用制度の概要

《証拠省略》によると、予士校は、昭和一二年に陸軍予科士官学校令(昭和一二年四月八日勅令第一一一号)(以下、「予士校令」という。)が制定されたのに伴い、それまで本科と予科に別れていた陸軍士官学校が改編されて、その予科が独立し、各兵科士官候補生となすべき生徒及び各兵科(憲兵科を除く)将校となすべき学生を教育するところとして創設された旧陸軍大臣所管の陸軍将校養成機関であって、予士校生徒の採用、入校等については、概要次のような状況にあったことが認められる。

(1) その生徒は、年齢等に制限があったほか、陸軍幼年学校卒業者又は陸軍将校たることを志願し召募試験に合格したものであることが必要であった(予士校令二条)が、学歴には制限がなかったこと、

(2) 生徒の採用に関する事項は陸軍大臣の所管とされ(予士校令四条)、陸軍諸学校生徒採用規則(昭和八年四月二八日陸軍省令第一五号)及び生徒採用期ごとに陸軍省告示によって所要の細目的事項が当該召募要領として定められ、これに基づいて採用検査が実施されていたが、その検査については、陸軍教育総監部内に置かれた陸軍将校生徒試験常置委員会がその担当機関としてこれを実施し、具体的な採用者の決定は、陸軍教育総監が、右常置委員会の提出した採用予定者名簿に基づいてこれを行ったこと、

(3) 生徒採用検査は、身体検査と学科試験に分かれ、身体検査は八月下旬から九月二四日までの間に行われ、学科試験はおおむね中学校第四学年第一学期修業程度で国語、作文、数学、歴史及び地理、理科等の主要科目について九月二五日からおおむね三日間行われたこと(陸軍諸学校生徒採用規則五条、八条)、

(4) 生徒の入校は、通常毎年一回で、その期日は四月一日とされ、修学期間はおおむね二年と定められた(予士校令二条及び「陸軍諸学校生徒の入校期日の件」((昭和一五年二月一五日陸軍省告示第一一号)))が、昭和一二年九月二日「陸軍の諸学校の特例に関する件」(勅令第四七〇号)によってこれが変更され、陸軍諸学校に関する事項については、当該学校令の規定にかかわらず、その大部分が陸軍大臣の権限とされ、予士校生徒の修学期間は、当分のうち約四月ないし一年間短縮されたこと(「陸軍諸学校生徒修校期間当分の内短縮の件」((昭和一二年九月二日陸軍省令第三七号)))、予士校令も数次にわたって改正されたが法制上の根本的な改廃はなく終戦後まで存続されて、昭和二〇年一一月二六日陸軍省令第五六号により廃止されたこと、

(5) しかし、この間、予士校令の規定にかかわらず、予士校生徒の採用試験・入校期日等については、戦況の変化等に応じた柔軟な運用措置がとられ、特に昭和一九年及び二〇年の戦争末期においては予士校令所定の原則とはかなり異なる措置がとられるに至ったこと、

(二) いわゆる「六一期生」としての入校の可能性

当裁判所で取り調べた関係各証拠によると、被告人は、本件捜査段階において、予士校の「六一期生」として、昭和二〇年七月に着校した旨主張していたことが認められるので、この点について検討する。

《証拠省略》によると、

六一期生とは、前記陸軍省告示第八号の召募要領(①願書差出期日―昭和一九年三月一〇日より同年四月一〇日まで、②採用検査期日、学科試験―昭和一九年五月二八日より三日間、身体検査―学科試験合格者に対し昭和一九年八月一日より九月三〇日までの間において指定する日)に基づいて実施された予士校生徒の召募試験に合格したものであること(被告人はこの召募試験は受験していない。)、ただし、その採用入校時期の差、すなわち昭和一九年一一月と昭和二〇年四月とにより、前者を六一期甲、後者を六一期乙と区別されたこと、六一期甲については、右召募試験を受けたものから若干名の補欠入校が認められたが、六一期乙にはそれが全くなく、六一期甲及び乙ともにいずれもそのころ朝霞の予士校に着校したこと(ただし、その乙生徒の一部について早期着校が行われたことは後述のとおり。)、六一期生について右召募試験以外の試験による特別の編入制度は法規上存在せず、また、事実上右召募試験以外の試験による途中編入の事例もないことが認められる。

しかして、すでに認定したとおり、被告人は、昭和二〇年四月ころは、特幹隊第三期生として香川県小豆島にいたものであり、また、前記告示第八号による召募試験を受験していないものである以上、被告人の右主張にかかわらず、被告人が六一期生として予士校に入校した事実はありえないことが明らかである。

(三) 「六一期生」の次期に採用される生徒(いわゆる「六二期生」)としての入校の可能性

被告人が六一期生として予士校に入校した事実はありえないこと前説示のとおりであるが、その主張する予士校生徒召募試験受験の時期等からして、更に、被告人が六一期生の次期に採用される生徒(六二期生)として予士校に入校した事実の有無について検討する必要がある。

(1) 召募試験の実施

《証拠省略》によると、前記昭和一九年陸軍省告示第四八号によって定められた昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒(航空関係)の召募要領の内容は、

「陸軍部外者(一般)

資格

年齢 自大正一五年四月二日生 至昭和五年四月一日生

学力 採用時おおむね中学校第四学年第一学期修業程度の学力を有する者、ただし学歴を要せず

願書差出期日 自昭和一九年一一月一日至同年一二月一〇日

採用検査

第一次検査(身体検査) おおむね昭和二〇年二月(ただし、昭和二〇年陸軍省告示第八号により「昭和二〇年二月已むを得ざれば三月」と改められた。)師団長又は軍司令官の定むる日

第二次検査(身体検査及び口頭試問) 第一次検査の成績により詮衡せる者に対しおおむね昭和二〇年六月教育総監又は関東軍、支那派遣軍各軍司令官の定むる日

検査場

第二次検査 教育総監等の定める場所

陸軍部内者

資格

年齢 大正一三年四月二日以降出生の者

学力 前記陸軍部外者と同じ

願書差出期日 自昭和一九年一一月一日 至同年一一月末日

採用検査 前記陸軍部外者と同じ。」

というものであり、また、昭和二〇年五月二二日陸軍省省示第二四号によって定められた昭和二〇年一一月採用すべき予士校生徒の召募要領の内容は、前記昭和一九年陸軍省告示第四八号に基づく召募試験の志願者から採用し、採用検査の種類は口頭試問、その期日はおおむね八月とし教育総監の定むるところによるというものであって、右の両者が六一期の次期に採用される生徒の召募要領であることが認められる。

しかして、右召募試験の実施状況について考察するに、前記証拠によると、昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒については、ほぼ前記召募要領のとおりに採用検査が実施され、その第一次検査(身体検査)は同年二月又は三月に実施されたが、特に陸軍部内者に対してはその各部隊に委嘱して行われたこと、更に、その第二次検査(身体検査及び口頭試問)は、教育総監部の試験委員三名(文官教官二名、武官教官一名)による試問班が各地の検査場を順次巡回して実施したこと、その検査の予定期日は、

東京 五月二〇日ないし末日

京都及び熊本 五月末ないし六月上旬

長野 六月中旬ないし下旬

弘前 六月下旬

となっており、これらの検査は、ほぼ右予定のとおり実施されて、同年六月末までには終了したが、この場合の試験形態はそれまで全国統一的に実施されていた従前のそれとは大きく異なる簡易変則的なものであったこと、また、同年一一月に採用すべき予士校生徒についての採用検査は、おおむね同年八月とされていたが、同年一〇月に採用すべき予士校生徒の第二次検査に引き続き、前同様の試問班により巡回して行われており、遅くとも同年七月には始っていたことが認められる。したがって、被告人が予士校生徒の召募試験を受けたとする時期には、六二期生の召募試験が前認定のような形態で行われていたことになる。

(2) 召募試験の合否の決定時期等

次に、昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒の志願者についてなされた召募試験結果の判定(合否の決定)及びその合格通知等の時期について検討する。

当裁判所で取り調べた関係各証拠を精査しても右の点に関する直接証拠は存在しないのであるが、証人高山利夫に対する当裁判所の尋問調書及び「陸士六二期生(採用予定)の試験等について」と題する書面の写によると、同年七月二五日に教育総監部の所管課長(専任主事)によって同年一〇月に採用すべき予士校生徒の召募試験を受けた者約二〇〇名について合格した旨の課長決裁がなされたことは認められるが、他方当裁判所で取り調べた証拠によると、昭和一二年以来予士校生徒は増加の傾向をたどり、六一期生甲生徒は約一、八〇〇名、同乙生徒は約三、五〇〇ないし三、六〇〇名の多きを数えていたことが認められ、更に、当時の戦況等を考慮すると昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒は当然多数に上るものと推認されるので、前記課長決裁のあった約二〇〇名はその一部であることの高度の可能性を否定できない。しかも、前記(1)召募試験の実施の項で認定したとおり、昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒の第二次検査は同年五月ないし六月中に各地で順次行われ、他方同年一一月に採用すべきものについても同年七月にはすでにその検査が始まっていたこと、そして、右後者についての告示、すなわち、前記昭和二〇年陸軍省告示第二四号にはその一項七号に「教育総監告示第四八号ニ依ル第二次検査ニ合格セザリシ者ノ中ヨリ採用セントスルトキハ当該志願者ニ付応否ヲ確メタル後採用スルモノトス」とあることなどを総合すると、右告示第二四号による召募試験実施以前に右告示第四八号によって召募された同年一〇月採用すべき者については、前記東京・京都等各地での検査終了後同年七月までには順次前記約二〇〇名以外の者についても合格決定及びその通知がなされていた高度の可能性を肯認せざるをえない。

ところで、昭和二〇年八月五日付京都新聞及び同月七日付北国毎日新聞の各記事の写によると、同年一〇月に採用すべき予士校生徒の合格者には同年八月二日から本人に対し速達で採用通知を発し、同月二四日から四日内に予士校へ着校すべき旨の指示がなされており、また、同年一一月に採用すべき予士校生徒についても同月中、下旬に採用発表の予定であったことが認められる。しかし、右着校通知は陸軍部外者に対するものであって同部内者に対しては別異の取り扱いがなされていた旨の弁護人側の主張は、当該各新聞記事の内容及び新聞報道の性質等から、これが陸軍部外の一般応募者を対象としたものと考えられなくもないこと、また、当時予士校生徒の召募については、陸軍諸学校生徒採用規則、前記昭和一九年陸軍省告示第八号、同陸軍省告示第四八号等によって、陸軍部内者と同部外者とは、その年齢、願書提出先及び提出期限等の点で別異に取り扱われていたことが明らかなので、これらの事情からして、右主張をむげに排斥するわけにはいかない。

(3) いわゆる早期着校

更に、被告人は、昭和二〇年七月に予士校に着校した旨主張するので、右の早期着校の可能性についても検討する必要がある。

《証拠省略》によると、予士校令二条、「陸軍諸学校生徒の入校期日の件」(昭和一五年二月一五日陸軍省告示第一一号)において「四月一日」と定められていた予士校生徒の入校期日はその後変容を来たし、「昭和二〇年入校せしむべき」予士校生徒であった六一期生は、その一部(甲)が昭和一九年一一月に入校を命ぜられており、また、その残余の昭和二〇年四月に入校を命ぜられていたもの(乙)の一部も同年二月に着校を命ぜられていたこと、更に、六一期の次期にあたる同年一〇月に採用すべき生徒中には、前認定のとおり、「同年八月二四日から四日内」に着校すべき旨の命令がなされていたこと等が認められる。

右認定のとおり、六一期生及びその次期に採用すべき生徒について予定入校期日以前の早期着校が行われていた客観的事実と前記(2)召募試験の合否の決定時期等の項で説示したとおり、昭和二〇年一〇月に採用すべき生徒の採用検査が同年五月ないし六月中に各地で順次実施され、その合格決定及び通知等も右採用検査終了後に順次なされていた可能性を否定できない状況並びに当時の戦況等を併せ考察すると、右の合格決定及びその通知等に引き続いて早期着校が命ぜられていたことも否定できなくなり、被告人の主張する同年七月中の早期着校も全くありえないものとまでは断定できない。

(四) 被告人の予士校「六二期生」としての召募試験合格及び早期着校の有無

(1) 被告人の予士校受験

公判調書中の証人山岸清(第六回公判)及び同野呂直義(第七回公判)の各供述部分によると、右両名は、いずれも、被告人と同様に昭和二〇年二月に香川県小豆島所在の特幹隊に第三期特幹生として入隊し、特幹生の教育訓練を終了した直後和歌山県和歌浦の船工九補に転属し、同部隊に所属中、予士校生徒の召募試験受験のため京都へ赴いたというものである。したがって、右両名の京都での受験に関する記憶は極めて重要なものと思料されるところ、右両名の前記公判調書中の各供述部分には、要旨「和歌浦転属後間もない昭和二〇年六月ごろ、予士校受験のため、一〇数名の特幹生と共に上官に引率されて京都へ赴いた。」「途中の大阪は、空襲によるかなりの煙がみえた。」「試験場は、京都駅から歩いて五・六分くらいのところであった。」「試験は学科試験はなく、当日だけで終わり、その日のうちに和歌浦に帰隊した。」旨記載されている。そして、右の各供述記載内容は、本件公判調書及び被告人の検察官に対する供述調書第七項中の被告人の京都での予士校受験に関する供述記載内容とよく符合しており、そこにはいずれも不自然不合理な点も見い出せないから、結局、被告人の予士校受験に関する弁解は、十分信用するに足りるものと認められる。

以上の判断のもとに、《証拠省略》を総合すると、被告人は、特幹隊入隊前の昭和一九年一二月ころ、当時召募していた昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒を志願して、その願書類を提出した後、同年二月特幹隊に入隊して、その第三中隊第一区隊に所属し、当該所属区隊長から予士校受験意思の確認を受け、同年五月末ごろ、特幹隊での訓練等を終了後、和歌山県和歌浦の船工九補に転属したが、その後間もない同年六月初旬ころ、一〇数名の特幹生と共に京都の検査場に出頭し、巡回試問班によってなされた前記昭和一九年陸軍省告示第四八号に基づく前記予士校生徒の召募試験(口頭試問及び身体検査)を受験し、再び前記船工九補に帰隊したものと認められる。

(2) 被告人の予士校入校

被告人が前記昭和一九年陸軍省告示第四八号によって召募された昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒の召募試験を受験したものと認められることは前説示のとおりである。しからば、被告人は、その主張するとおり、果して同試験に合格して予士校に入校したものなのか否かを検討すべきこととなる。そこで、当裁判所で取り調べた関係各証拠を逐一仔細に精査して検討するに、被告人の予士校入校に関する直接証拠は、被告人の検察官に対する供述調書、被告人の当公判廷における供述及び本件公判調書中の被告人の供述部分が存在するだけであって、他には何らの証拠もない。しかも、検察官は、前示証拠中の被告人の供述及び供述記載部分には他の関係証拠に照らして多くの疑問点がある旨指摘し、これがかえって、被告人の右供述等が虚偽であって、被告人が予士校に入校していない事実を推認させる旨主張するので、以下、検察官の指摘する点について順次検討を加えることとする。

(Ⅰ) 被告人の供述

前示証拠によると、被告人が本件の捜査及び公判の各段階を通じ右の点について供述するところは、要旨次のとおりである。すなわち、(a) 被告人は、予士校生徒の召募試験を受験して船工九補に帰隊した後、同部隊で中隊長付当番兵として勤務中、特幹隊所属当時の区隊長原中尉から同試験に合格した旨の私信を受け取った。(b) 被告人は、その後の昭和二〇年七月ころ船工九補の内務係某准尉からも同試験に合格した旨告げられて、書類の入った角封筒を渡され、同封筒を携えて東京市ヶ谷所在の陸軍教育総監部まで単身で赴くべき旨指示された。(c) そこで、被告人は、当時公用腕章を着用し、同封筒を携えて単独で同総監部まで赴き、同封筒を同総監部の係官に差し出したところ、即日同係官によって自動車で埼玉県朝霞所在の予士校へ連れて行かれた。(d) 被告人は予士校の六一期生乙あるいは六二期早期着校組の生徒として着校したと思う。(e) その後、被告人は、予士校の生徒舎において一〇数名の同期生と起居をともにし、一〇数日間、午前中学科授業、午後軍事教練を受け、同年七月下旬ないし八月上旬ころに至って地名不詳地へ集団で疎開し、そこで数日を過ごすうち八月一五日の終戦を迎えた。(f) 終戦の二・三日後、被告人は、予士校に入ったときから一緒に起居していた一〇数名のうちの数名の者と中隊長室に呼ばれ、元の各所属部隊へ復帰すべき旨指示され、直ちに五・六名の予士校生徒と連れ立って誰の引率もなく同地を出発し、その発駅及び経路等については一切記憶していないが、とにかく名古屋経由の国鉄列車に乗車して、同月二〇日ころ、単身で当時広島県豊田郡忠海にあった原隊に到着した。原隊へ復帰したときは、被告人は一人だけになっていた。被告人は、しばらく同所に滞在した後、同年九月中に、郷里の石川県佐美町の父母らのもとへ復員した。というものである。

(Ⅱ) 検察官の主張の検討

前記(Ⅰ)の被告人の供述中、検察官の指摘する各疑問点について、以下順次検討する。

(イ) 着校通知の関係書類について

検察官は、六一期乙までの予士校生徒らに対する採用関係の通知書類として合格電報、採用通達書、陸軍予科士官学校採用者心得、身体検査後ノ心得及び著校ニ関スル件達等が存在するのに、被告人の手許にこれらの書類が全く存在しないのは、被告人の供述等が信用できない一証左である旨主張する。なるほど《証拠省略》によると、従来、予士校生徒の召募試験に合格した者に対しては、その者が陸軍部内者であると、また、一般部外者であるとを問わず、予士校に着校するまでの間に、一般的に検察官の掲げる前記通知書類等が順次送付されており、前記昭和一九年陸軍省告示第四八号によって召募された昭和二〇年一〇月に採用すべき予士校生徒の合格者らに対しても、また速達によって採用及び着校等に関する通知がなされていたことが認められる。

しかしながら、第一四回公判調書中の証人前田清則の供述部分によると、同人はかつて現役兵として仏印の討第四二三六部隊に所属し、昭和一九年中に当地で予士校生徒召募試験を受験してこれに合格したものであるが、その合格通知は同所属部隊の人事係の准尉から口頭で告げられただけであり、その二・三ヶ月後に中隊長から予士校へ着校を命ぜられるまでの間、被告人の場合と同様に前記のような通知書類等を受領していないことが窺われるので、同人が外地にいたものであることを考慮しても被告人の手許に前記通知書類等が存在しない点をとらえて、被告人の前記供述を信用し難いものと断定するのは適当でない。

(ロ) 合格通知者について

検察官は、陸軍部内者に対する予士校への着校命令は当該所属の部隊長が陸軍教育総監部から受けた所要の通知によってこれをなすべきものであり、また、外地の部隊から予士校に着校した前田清則は当該所属の中隊長から予士校への着校命令がなされているから、被告人が船工九補の内務係准尉から予士校生徒召募試験に合格した旨告げられ、かつ、予士校への着校について指示されたとする点は不可解である旨主張している。

なるほど、検察官の掲げる証拠中には、その主張に沿う供述記載部分も存在するが、そのような命令伝達の在り方と被告人が内務係准尉から前記合格通知等を受けたとする被告人の供述部分とは何ら矛盾するものではない。むしろ、弁護人主張のとおり、内務係准尉が被告人に対する事実上の通知をしたとしても、それは上官の命令の執行として行われたものとするのに格別支障がないからである。

(ハ) 公用腕章を着用しての単独上京について

検察官は、陸軍部内者が予士校に入校する場合には、元の所属部隊を離隊することとなるにもかかわらず、被告人が隊から近距離の事務連絡等に本来用いらるべき公用腕章をつけ、単独で上京したとするのは、不合理であり、これまた被告人の供述が信用し難い証左である旨主張する。

しかし、かつての陸軍部内における公用腕章の取り扱いについて、これが使用されたのは本来隊外の近距離のところへ連絡事務等に出向く場合だけに限られていたと認めるに足りる何らの証拠も見い出せないから、検察官の右主張はその根拠がない。かえって、第二八回公判調書中の証人鏡等は同人のかつての経験から決して近距離とはいえない他部隊への単独での転属の場合にも公用腕章を着用して行動するのが通例であったというのであり、同証人の当該供述部分によると、同証人は、昭和二〇年一月一〇日陸軍少尉に任官し、和歌山県和歌浦の船工九補で特幹生の教官として勤務した後、忠海の部隊へ転属し、そこで小隊長をしていたものであり、当時の陸軍部内における公用腕章の取り扱い等についても十分知識経験を有していることが認められるので、同証人の右供述部分は十分信用するに足りるものと考えられる。

また、検察官は、被告人が船工九補から単独で上京して予士校に着校したとすると、船工九補から予士校生徒の召募試験を受験した候補生一〇数名中、合格者は被告人ただ一人となり、証人島多与一に対する当裁判所の尋問調書中の同証人の供述記載内容、すなわち、前記昭和一九年陸軍省告示第四八号の召募試験と推認される第二次検査の合格率が三分の一であったことと矛盾する旨主張している。

なるほど、証人島多与一の右尋問調書中には検察官の右主張に沿う供述記載部分も存在するが、右島多与一は、当時金沢の連隊区司令部所属の召募係として自ら引率した同関係地域の受験者である一般陸軍部外者約五・六〇名について極く大まかな合格率を述べているに過ぎないことが同供述記載自体から明らかであるから、この供述記載をもって被告人の前記供述部分を論難するのは、合理的とはいえない。

なお、検察官は、被告人が同じころ予士校に着校した一〇数名中、一番早く着校したとする趣旨の供述をしていたのに、その後、一番後であったとして先の供述を翻した旨指摘するが、被告人の第三五回公判における当該供述の趣旨は、弁護人も主張するとおり、被告人が予士校の生徒舎の部屋に入ったときには他のものはいなかったというのであって、着校の順番について供述したものとは認められないから、右の点に関する被告人の供述部分には何らの矛盾もない。

(ニ) いわゆる「期」について

検察官は、被告人が当初六一期乙生徒として予士校に編入した趣旨の供述をしながら、公判段階に至って六二期生の早期着校組であったように供述しているのは、証拠調べの結果、右六一期乙生徒編入の主張が困難となったことによるものであって、この点からしても被告人の弁解は信用し難い旨指摘する。

そこで、検討するに、当裁判所で取り調べた関係各証拠によれば、なるほど検察官指摘のとおり、被告人の予士校生徒としてのいわゆる「期」に関する供述自体には一貫性がなく、本件の捜査段階と公判審理の段階とで変遷していることが明らかである。しかしながら、《証拠省略》を仔細に検討してみても、予士校生徒召募の際に発せられる召募要領等には「昭和○年度陸軍豫科士官学校生徒」、「昭和○年入校せしむべき者」、「昭和○年○月採用すべき」などと記載されているのみで予士校生徒の「期」については何らの記載も見当らないし、また、前掲各証拠によると、予士校生徒の「期」は、本来予士校の本科である陸軍士官学校の「期」に相当するものを呼称していたことが認められるうえ、昭和一九年及び昭和二〇年においては、予士校生徒を毎年一回入校させていた従前の制度に変容を来たしていたこと前認定のとおりであるから、昭和二〇年当時の予士校生徒の全てが、当該召募試験受験時又は着校時において自己の予士校生徒としての「期」を明確に認識していたとは必らずしも断定し難いものと判断される。しかも、被告人の右の「期」に関する供述部分はその表面的な数字自体については変遷しているのであるが、その判断の基礎となっている事実関係については何らの変更もみられず、要するに予士校最後の「期」の生徒であるという意識には変化はなく、終始一貫した供述記載がなされているのである。したがって、被告人の予士校生徒としての「期」に関する供述部分についても、これを信用し難いとする根拠が明確でないことに帰する。

(ホ) 被告人の予士校生活に関する記憶について

検察官は、被告人が「陸士の校歌」や予士校内の建物の配置等をかなり正確に記憶にとどめている反面、被告人の所属した中隊・区隊名をはじめ、中・区隊長名、寝台戦友及び同期生等重要な点についての記憶が全くないことを挙げて、被告人の予士校生活に関する供述部分は不自然であると指摘する。

そこで、当裁判所で取り調べた関係各証拠を検討するに、《証拠省略》によると、被告人が予士校在校中に得たという予士校生活に関する記憶について供述するところは、検察官が指摘するとおりの状況にあるうえ、第三回公判調書中の証人岩田仁孝の供述部分及び証人酒寄和郎に対する当裁判所の尋問調書によると、ともに予士校生徒(六一期生)であった右両名は、当時の所属中・区隊、中・区隊長、寝台戦友及び同期生・所属兵科及び雄健神社の各氏名や名称等は予士校生徒としての生活を経験した者にとって忘れ難きものである旨強調している。なるほど、太平洋戦争末期の昭和二〇年当時軍国主義及び帝国主義の教育を受けて、これを信奉していた年齢二〇歳前後の若人が、その当否は別論として、国家存亡の危難に直面し、自己の死を顧りみることなく、軍人として戦場に赴くことを至上の名誉と観念し、特に陸軍部隊においては、将校の養成機関である予士校の生徒に熱烈な憧れを抱き、その召募試験合格の栄冠を完うしようとして、その受験準備に懸命の努力を続けた結果、選ばれて同試験に合格した者達が輝かしい陸軍将校生徒の名のもとに多くの関係者らから祝福、激励されて、予士校に迎え入れられ、大きな感激と昂奮のうちに、将校生徒として予士校内に起居しながらその日課に全力を傾注したであろうことは、当裁判所で取り調べた関係各証拠から推認するに決して難くないところであり、そうだとすると、当時の予士校生徒にとって、予士校生活中に体験した事実は鮮明に印象づけられ、特に検察官の指摘する前記各氏名や名称等についてはこれを終生忘れ得ないであろうとする意見も一応傾聴に値いするところと考えられる。

しかし、予士校六一期生(乙)として約五ヶ月間朝霞の予士校で生活を送ったものである前田清則は、その中・区隊長、寝台戦友等の名前をすでに忘却して了ってこれを記憶していないこと、また、同期生として右予士校生活を経験している宮田和雄もかつての中・区隊長の名前を忘れていたが、最近六一期生の名簿を見てようやく思い出し、同期生の氏名についてもわずか一名だけを記憶しているにすぎないことがいずれも認められる。しかも、前記酒寄和郎は、終戦以来二〇数年にわたって予士校の区隊会を開き、昭和四四年、四七年、四八年に開いた六一期生全体の会合の際にはその案内状を発送するなどして雑務の大部分を自ら担当したほか、青春時代の体験と鮮烈な印象を永遠に残そうとして六一期生名簿の作成に情熱を傾けているものであり、また、前記岩田仁孝も、右名簿の作成に携わっており、その中心人物である右酒寄とも連絡をとっているほか、六一期生の同期会等にも関心を持っているものであって、予士校生活に関する右両名の記憶状況と、わずかの期間しか予士校に在校していなかったと主張し、かつ、戦後一貫して戦争放棄をとなえる社会党員として地方政治に関与し、予士校関係者と深い接触があったとは認め難い被告人の記憶とを比較対照して事を論じている検察官の主張は当を得ない。

更に、検察官は、被告人が予士校在校中区隊長に一度しか会っていない旨述べている点は、《証拠省略》に照らしてとうてい理解し難いと主張する。

しかし、当裁判所で取り調べた関係各証拠によると、区隊長は予士校生徒に対するいわゆる訓育、術科の指導を担任し、隊編成後当該指導担当の生徒とは通常ほとんど毎日接触があったとみられるのであるが、被告人の供述によると、その在校中未だ隊編成前の状態であったというのであるから、右の点に関する検察官の主張もまた必ずしも十分納得させるものではない。

その他、検察官の指摘する疑問点を逐一検討しても、被告人の予士校生活に関する供述部分が虚偽であるとまでは断定できない。

(ヘ) 疎開先について

被告人は、敗戦当時居住していたとする予士校の疎開先について要旨次のように供述している。すなわち被告人の検察官に対する供述調書(昭和四七年九月一三日付)中では「その地名は全然覚えていません。近くに海があったか山があったか、あるいは温泉があったか、汽車が走っていたかも覚えていません。」とし、また、第三五回公判調書中では「きれいな緑に囲まれた台地で岩山があり、学校の周辺は三方畑で校庭の周囲には大きなケヤキの木があった。その地名はわからない。」というに止まっている。確かに検察官が主張するとおり、敗戦は日本人全体に強烈な印象を与えたはずであり、当時の日本のおかれた状況を理解できたものは、現在においても、あの敗戦をどこでどのように迎えたかをなおかなり鮮明に記憶にとどめているであろう。しかも、被告人は、前記(Ⅰ)の(f)項に説示しているとおり、予士校の疎開先から、予士校生徒だけで誰の引率もなく、自らは一人で原隊のいる忠海へ向ったと主張しているのであるから、劣悪な交通事情の最中に苦労して交通機関を選び目的地に辿り着いたものと当然推認される当時の状況からして、この出発地点たる疎開先や駅名等を記憶にとどめるはずであろう。それにもかかわらず、被告人は、敗戦当時の居住地さえもほとんど記憶していないというのは、被告人の供述中最も弱点とされるところである。現に本裁判において証人として出廷したかつての予士校六一期生や特幹隊所属の者らは、いずれも終戦時の所在地名をほぼ明確に記憶していることが認められるのである。

しかしながら、被告人は、前記疎開先の地形、周囲の状況等についてはある程度述べている反面、《証拠省略》によると、被告人は、捜査段階においては、かつて特幹生として関係の深かった忠海、和歌浦の地名さえも覚えていなかったことが窺われるので、これらの事情に前記予士校生活についての記憶状況等を併せ勘案すれば、被告人が右疎開先の地名等を想起し得ないことのみをとらえて被告人の右弁解が虚偽であるとまで断定することは困難である。

(ト) 復員について

検察官は、終戦後予士校においてはその生徒らを直接郷里等へ帰して復員させたのであるから、被告人が予士校の疎開先から特幹隊同期生のいる忠海の原隊へいったん復帰したとする点は虚偽であると主張する。

《証拠省略》によると、被告人が予士校から原隊に復帰する形で復員したとする時期、すなわち、昭和二〇年八月一五日の数日後当時の復員に関する法令としては、帝国陸軍復員要領(昭和二〇年八月一八日付軍令陸甲第一一六号)及び帝国陸軍復員要領細則があり、予士校においても右復員要領及び同細則の各規定に従って復員業務が処理されていたこと、予士校に入校し、予士校生徒の兵籍に編入されたものは、これが陸軍部内から入校したものであっても、兵役法施行令(昭和二年一一月三〇日勅令第三三〇号)一四条「兵(現役兵又は補充兵に決定したる者を含む)にして武官又は陸軍の諸生徒若は海軍の学生生徒の兵籍に編入せられたる者は当該兵籍に編入せられたる日を以って兵の身分及服役を免ず。」及び陸軍武官服務令三六条「下士官にして陸軍の諸生徒又は海軍の学生生徒の兵籍に編入せられたる者は当該兵籍に編入せられたる日を以て下士官の身分及服務を免ず。」の各規定によって従前の身分、階級等を失い、かつ、原隊との関係も消滅するものであるから、最早や原隊復帰は法令上あり得ないこととなり、結局、予士校生徒の復員については、それが陸軍部内からの入校者であると否とを問わず、その取り扱いに何らの区別もなかったこと、現に六一期生の復員については、昭和二〇年八月二〇日前後ごろから同月下旬にかけて、予士校の朝霞本校及び各疎開先ごとに解散式が行われた後、当該各所在地から直接各復員先の地方別に集団で指揮者に引率されて帰還したこと等が認められ、右認定の状況からすると、いったん原隊へ復帰したという被告人は、その復員当時未だ予士校生徒の兵籍に編入されていなかったといわなければならない。

しかしながら、被告人の前示供述部分等を検討すると、被告人は、昭和二〇年七月ころ朝霞の予士校に六二期生として早期に着校し、疎開先に移った後も未だ六二期生としての中・区隊編成も行われず、他の早期着校者らと共に予士校内で正式の入校時期を待っている状態にあったということを述べているのであり、結局、未だ予士校生徒の兵籍に編入されていない段階にあったことを意味する供述をしているものと解される。そうとすれば、弁護人主張のとおり、被告人は、復員の際、すでに正式に入校していた六一期生と別異の取り扱いをされ、帝国陸軍復員要領細則七条八号にいわゆる「其の他の者は原所属部隊に復帰せしむるものとす。」との規定に基づいて、原隊に復帰させられたことになり、このような解釈の余地があるといわねばならない。したがって、叙上のような解釈の余地がある以上、復員に関する被告人の弁解を信用し難いものと決めつけることはできない。

(チ) まとめ

以上被告人の予士校入校についての主張等、すなわち、被告人の検察官に対する各供述調書及び本件公判調書中の被告人の供述部分には疑問点がないわけではないのであるが、以上検討したとおり、それらの疑問点があるからといって被告人の右供述部分等を全面的に信用し難いものとし、被告人が予士校生徒の召募試験に合格した事実はもちろん、予士校に着校し、同校内で生活した事実等に至るまで、すべて事実無根のものと断定することはできない。

(五) 被告人が予士校に在校したと主張する時期における被告人の所在

(1) 検察官の掲げる証拠の検討

検察官は、被告人が予士校に在校していたと主張する昭和二〇年七月から八月二〇日ころまでの間、被告人は忠海を中心として広島県又はその近県に所在していた旨主張し、種々の証拠を掲げるので、その関係各証拠について順次検討する。

(Ⅰ) 安江喜久男証言

第二五回公判調書中同証人の供述部分には、要旨「私は特幹隊三期生として小豆島で訓練を受けた後、転属し、昭和二〇年六月中旬ころから同年九月復員するまでの間、忠海の暁第一六七〇九部隊芙蓉隊に所属していた。竹内伊知が同年六月中旬ころ、右芙蓉隊内で食事中、一人の候補生を殴り廊下を引きずって行った。竹内伊知が忠海駐留期間中『塩田』と呼ぶチンピラ風の候補生を操り、一つのグループを結成していた。」との記載がある。

ところで、右証拠によると、安江喜久男は、被告人の反対派の有力者である森俊男とも連絡をとって本件の捜査に協力していた萩野質から、「君は忠海にいたからよく知っておるはずや。」と言われ、その結果本件の捜査に関係するに及んだものであるが、その証言中において、自己に所属していた特幹隊第三中隊第一区隊の写真を示され、区隊長はともかく、被告人を記憶しながら、他の同期生については記憶を失っており、被告人を特に記憶していることについての合理的な根拠は見い出せない。しかも、右安江証人の指摘した、塩田候補生と認められる証人塩田司は、昭和二〇年六月中旬ころから同年九月二〇日ころまでの間、忠海の暁第一六七〇九部隊に所属してはいたが、その間同部隊で私的な集団を作って勢力を持つとか、暴力事件を起こしたようなことはない旨強調し、もしそのような事態があれば大問題となり、場合によっては重営倉の懲戒処分を受けているはずであるとの理由まで付加して説明しており、また、右の忠海時代に知った「竹内」という名前にかすかな記憶があるが、その名前を知った時期は不明であると述べているのである。

右の事情に照らし、前記証人安江喜久男の供述部分は必ずしも信用をおくわけにはいかない。

(Ⅱ) 谷田信次の検察官に対する供述調書

右供述調書中には、谷田信次の供述として、同人が昭和三六年から昭和三八年ころまでの間、原水爆禁止世界大会参加のため広島へ向う列車の中で、被告人から、「原爆の後始末をしたのや。」「わしは直接被爆を受けておらんが近くにおったんや。」という話を聞いた旨の記載がある。

しかし、右供述調書中の前記谷田信次と被告人との当該会話の状況についての供述記載内容は具体性に乏しく、これがいかなる状況のもとで、いかなる事情からなされたものなのか等の点について、何ら具体的な説明がなされていないため、その会話内容の具体的意味付けを判断するのに必要な前後の状況等が不明確であるうえに、谷田信次は、第八回公判廷において、証人として尋問を受けた際には、被告人から原爆投下のときの所在場所を聞いたことはないとして前記会話内容を否認するに至っているのである。

右事情からすると、谷田信次の右供述調書中の供述記載部分は、その信用性が十全であるとはいえない。

(Ⅲ) 山本利男証言

第六回公判調書中の同証人の供述部分には、要旨「私は竹内伊知と同じ特幹隊第三中隊第一区隊に所属していたが、昭和二〇年六月一〇日ころ和歌浦から忠海へ移動し、宇品での短期間の滞在を除いては忠海の芙蓉隊に所属していた。同年の六月末から七月初めころ、忠海において、演習等の帰りに竹内伊知を二回ほど見たような記憶がある。特幹隊同期生の松本良一、出口由則等も和歌浦から忠海へ移動したと思う。」との記載がある。

しかし、松本良一は、特幹隊第三期生であったが、その訓練等の終了後も甲種幹部候補生要員として小豆島に一ヶ月ほど残留し、その後和歌浦へ行くことなく、直接忠海へ赴いているものであり、出口由則は、特幹隊三期生であるが、昭和二〇年二月二五日警戒機要員として船舶情報連隊へ転属し、同日第二特別幹部候補生隊に編入され、更に、同年七月一五日船舶情報連隊教育隊第四中隊に編入され、同年九月六日帰休除隊したものである。このように、証人山本利男の供述部分は、特幹隊入隊後復員までの間の戦友に関する部分に極めて大きな誤謬を含んでいるうえに、その供述部分には、被告人を見かけたとする時期についての前記の時期に限定する根拠はない旨の記載もあるので、これらの点を総合すると、同証人の前記供述部分は信用性に乏しい。

(Ⅳ) 萩野質証言

第八回公判調書中の同証人の供述部分には、要旨「私は特幹隊で竹内伊知と同じ区隊に所属していた。昭和四八年八月二二、二三日ごろ、弁護士らを帯同して私方を訪れた竹内伊知から、広島に原爆が投下された時、自分の乗った汽車がトンネル内を走っていて九死に一生を得た旨聞いたことがある。」との記載がある。

ところで、当裁判所で取り調べた関係各証拠によると、被告人が、弁護士を帯同して、岐阜県大垣市所在の萩野質方をわざわざ訪問したのは、ほかならない自己の予士校入校の事実を立証する有利な資料を得んがためのものであったと認められるのに、その席上、被告人が右目的と明らかに矛盾するような話をするとはとうてい考えられないし、また、昭和四八年八月二二・二三日ごろ、被告人が前記萩野方を訪問し、談話した際、その場に同席した車繁雄は、被告人の口から原爆が落ちたとき、トンネルの中にいたという話は全然聞いた覚えがなく、そんな話があれば非常な疑義を抱いてその場で被告人に聞き直すはずだと断言しているのである。これに加えて、当裁判所で取り調べた関係各証拠によると、萩野質は、被告人の反対派の有力者である森俊男(昭和四八年八月六日施行の小松市長選挙に立候補した被告人の対立候補者竹田又男の総務企画担当であったもの)から協力方を依頼されて右反対派の者と数度の接触をはかり、自らも諸所に連絡又は照会するなどして右反対派の活動等に力を貸していたものであり、長田良一から電話で「竹内伊知の記憶が明確でない。」と告げられるや、被告人の言うことは全て信用しないとの先入観をもって前記のとおり被告人と対話したとまで言い切っていることが認められる。

右の事情からして、右証人萩野質の当該供述部分は、偏頗ではないかとの疑問を払拭し切れないこととなり、にわかに措信できない。

(Ⅴ) その他

更に、検察官は、被告人と同期の特幹隊三期生であって、京都で予士校生徒の召募試験(第二次検査)を受験した山岸清及び野呂直義が、右受験後、和歌浦から忠海へ移動しているが、この事実は、被告人も右特幹隊同期生らと同様に忠海へ移動したことを推認させる間接事実であると主張する。

そこで、右の点について検討するに、《証拠省略》によると、右両名は、被告人を含む特幹隊同期生らとともに京都で予士校生徒の召募試験を受験した後、和歌浦にしばらく滞在し、その後、右山岸清は直接忠海へ、また、右野呂直義は尾道に二日くらい立寄った後、忠海へ赴いたが、右両名とも間もなく甲種幹部候補生要員として小豆島の八紘隊に配属され、小豆島又は岡山で終戦を迎え、同所からそれぞれ郷里へ復員したことが認められる。右事実によると、当時予士校の試験を受けた船工九補所属の特幹生らがすべて同一の経路で忠海へ行ったとはいえないし、また、忠海から復員したとする被告人の経路とも異なるのであるから、右両名の前記移動状況をもって、検察官主張のように単純に被告人が和歌浦から忠海へ移動したと推認する間接事実とするのは相当でない。

(2) その他の証拠の検討

第五回及び第二九回公判調書中の証人西市造の供述部分には、同人は特幹隊同期生として小豆島時代から被告人を知っているが、昭和二〇年五月末に被告人と別れ、同年六月上旬か、七月上旬過ぎころに忠海に移動して同所で終戦を迎え、その後間もないころ、同所で被告人と再会した旨の記載があり、また、第一二回及び第二七回公判調書中の証人吉本庄一の供述部分には、被告人とは小学校が一緒で特幹隊の同期生でもあるが、特幹隊入隊後、被告人には小豆島で会っただけで、和歌浦以降は見ておらず、昭和二〇年九月ころ復員列車内でたまたま再会したものであり、原爆投下の日仙崎港から忠海に戻り、その後復員まで忠海にいたが、忠海に戻った日に西市造と会い、その際、同人と「被告人を見たか。陸士でも行ったのじゃないか。」という話をしたと思う旨の記載がある。

そして、右西市造、吉本庄一の両名とも、小豆島の特幹隊時代から、被告人を同郷人とし、あるいは同じ小学校出身者として知り、また、成績優秀者として注目してはいたが、戦後においては被告人と特別の交際はないというものであるが、いずれも被告人の前記主張等に沿う趣旨の証言をしていることを看過すべきでない。

(3) まとめ

以上検討したとおり、被告人の予士校入校の事実を否定する根拠として、被告人が予士校に在校したという時期には、被告人は他の特幹生らと共に忠海か、又はその近辺にいたとして、検察官が掲げた各証拠及びその間接事実は、いずれも信用性に疑問があるか、又は有効な間接事実ではなく、そこには、かえって被告人の主張を有利に展開する証拠さえも存在しているのである。

(六) 兵籍の不存在

次に、石川県厚生部民生課に被告人の兵籍(以下「兵籍」と「兵籍簿」を区別せずに、すべて「兵籍」という。)が保管されていない事実の意味するところを検討する。

(1) 《証拠省略》によると、次の各事実が認められる。すなわち、

(Ⅰ) 兵籍簿は兵役に服した旧帝国陸軍の身分上に関する所定事項を記載した公文書であり、初めて入営、入学又は採用のとき(すでに兵籍を調整してあるものを除く。)に兵籍を所管する部隊において調整すべきものとされていたこと(陸軍兵籍規則六条一項)、右にいわゆる「兵籍を所管する部隊」とは、内地、朝鮮、台湾、樺太にある部隊に属するものについては所属部隊を意味し(同規則五条附表)、特幹隊、船工九補、予士校もこれに含まれること、兵籍の所管部隊に異動を生じたときは、旧所管部隊がその訂正補足をしたうえ、当該兵籍を直ちに異動後の所管部隊に送付されていたこと(同規則一三条)、更に、終戦後当初は本籍地連隊区司令部で兵籍を保管することとなり、右兵籍は各連隊区司令部へ送付すべき旨定められたこと(帝国陸軍復員要領一九条)、したがって、各人の兵籍は右の要領によって処理され、本来は当該本籍地の各連隊区司令部が送付された各兵籍を保管しており、その業務を引き継いできた現在の担当機関が右兵籍を保管することになっていること、石川県においては、昭和二〇年八月一五日の終戦当時金沢連隊区司令部に保管されていた兵籍(ただし、同月二五日前後師団司令部からの焼却命令に基づき焼却処分に付したものを除く。)及び前記復員要領細則の規定に従って同年八月末から同年一〇月末までに各地の部隊から金沢連隊区司令部へ逐次送付され、同司令部で保管していた兵籍があり、これがその後同司令部から石川県地方世話部を経由して同県厚生部民生課に引き継がれ、現在同課でこれを整理保管し、同課所管の各種恩給業務の資料等に使用しており、その数は約一二万部に及んでいること、

(Ⅱ) 被告人は、昭和二〇年二月小豆島にある特幹隊に初めて入隊したものであるから、その所属部隊である同特幹隊で被告人の兵籍が調整され、その後右特幹隊から船工九補へ転属したため、その兵籍が船工九補へ送付されたこと、

(Ⅲ) ところで、被告人が船工九補から予士校へ入校しないで終戦まで忠海にいたとすれば、被告人の兵籍は特幹隊同期生中多くのもののそれと同様に処理されるはずであること、しかるに、特幹隊第三期生中、石川県に本籍を有するものは、被告人を含めて相川公平ら六六名であるところ、現在同県厚生部民生課には、被告人を除くこれら六五名の兵籍全てが保管されているのに、被告人の兵籍だけが存在しないこと、

(Ⅳ) 他方、陸軍諸学校生徒の兵籍については、前記復員要領細則等に定められたとおり、当該学校から金沢連隊区司令部に送付すべきはずであったのに、これがほとんど現存しておらず、昭和二〇年当時の予士校生徒中石川県に本籍を有するものの兵籍については、前田清則の兵籍が石川県厚生部民生課に保管されているだけであること(なお、前田清則は外地の歩兵第八三連隊に所属していたが、その留守業務を担当する金沢の歩兵第一〇七連隊で同人の兵籍を保管し、その後、同人が現役満期となって予備役に編入されたため、兵籍規則に従って同人の兵籍が金沢連隊区司令部に送付されたものであり、したがって、同人がその後予士校に入校したことによって同人の従前の兵籍には異動を生ぜず、そのまま同司令部でこれを保管し現在に至ったものと説明することが十分可能である。)、

(Ⅴ) なお、前記(Ⅳ)中、予士校生徒の兵籍が現在石川県厚生部民生課に保管されていない理由の一つとして、終戦後、予士校において、学校長から予士校生徒の在籍を証明する資料等の焼却命令が出され、現にその一部は焼却されたが、その際予士校生徒の兵籍も焼却されたために、当時その兵籍を金沢連隊区司令部に送付することができなかったものと考える余地があること

等が認められる。

ところで、被告人の兵籍がその本籍地の石川県厚生部民生課に現存しない理由について、更に考察するに、その可能性として次の三つの場合が一応考えられる。すなわち、  被告人が船工九補から予士校以外の他の部隊に配属されたとすれば、その所属部隊から金沢連隊区司令部に被告人の兵籍が送付されなかったことによる場合、  被告人が陸軍諸学校生徒、あるいは被告人主張のとおり、予士校生徒になっていたとすれば、そこで保管されていた被告人の兵籍が終戦後焼却処分等に付されたことによる場合、  金沢連隊区司令部もしくは石川県地方世話部又は同県厚生部民生課で被告人の兵籍を保管中に生じた紛失、抜取りの事故等による場合、が想定される。しかし、右のの場合については、終戦前後の混乱状態からして部隊単位での兵籍の送付もれはともかくとして、同一部隊中の極く少数者(例えば一・二名)のものの送付もれは可能性として少なく、現に被告人と同期の特幹隊三期生中石川県に本籍のある者については、被告人の兵籍が現存しないだけで他の者の兵籍は全部存在することを考慮すると、その可能性は極めて少ないものといわねばならないし、また、右のの場合についても、その兵籍の具体的な保管管理状態及び石川県に本籍のある特幹隊三期生中被告人以外の者の兵籍は全部存在することなどに照らして、その可能性もほとんどないものと考えられる。したがって、残る右のの場合の可能性が一番大きいものであることが認められる。

なお、検察官は、弁護人提出にかかる特幹隊三期生の兵籍にはその記載内容及び体裁に差異があることを指摘し、当時その軍歴に異動があった都度、記載された兵籍とはいい難く、別の機会に作成されたものと推認されるとし、現時点で石川県厚生部民生課にその兵籍があることを示すに過ぎない旨主張するが、検察官の指摘する当該兵籍の記載内容及び体裁の差異だけをもってしては、前記認定をとうてい覆しえない。

最後に、前記(四)の(2)の(Ⅱ)の(ト)項において、被告人はその復員当時未だ予士校生徒の兵籍に編入されていなかった旨説示したが、そのこと自体から兵籍の所在までも否定されるいわれはなく、被告人の兵籍については、被告人が予士校に早期着校したころ、被告人自ら又は他の者を介し和歌浦の船工九補から予士校に送付されていたと解せられる余地があるので、被告人が予士校生徒の兵籍に編入されていないからといって、被告人の兵籍までも船工九補から予士校に送付されなかったものと断定するわけにはいかない。

(2) 以上、検討してきたところによると、被告人の兵籍が石川県厚生部民生課に存在しないのは、被告人が陸軍諸学校、特に予士校へ行ったため、そこで被告人の兵籍が保管され、戦後これが焼却処分等に付されたことによるものと考える余地が残されていることとなり、この点からも検察官の立証は破綻を来していると判断される。

(七) まとめ

以上の説示によって明らかなとおり、本件においては、検察官が主張するように、被告人の予士校入校を事実無根であると断定し、当該事実を全面的に否定してしまうことのできない種々の事情が介在しており、そこには未だ合理的な疑いを容れる余地が残されているといわざるを得ないことになる。その反面において、被告人側で主張する被告人の予士校入校の事実については、多くの疑念を免れず、これをそのまま肯認することは未だ困難ではあるが、当該事実を推測させる幾つかの間接事実が確かに認められるのであって、その可能性を肯定すべきものといわねばならない。

2 予士校入校の法的意味

被告人側で主張する被告人の予士校入校の事実については、その可能性を肯定し得るにとどまり、右事実をそのまま肯認することは未だ困難であること叙上のとおりであるが、更に、前記1の(四)の(2)の(Ⅰ)で「被告人の供述」として記載した事実関係を前提とし、当該事実関係のもとで、被告人は法的な意味において、果して予士校に入校したものといえるのか否かの点について考察することが必要である。

まず、予士校は、前記一の1の(一)項で説示したとおり、法令に基づいて創設された旧陸軍大臣所管の国家施設であり、かつ、陸軍の一部隊とされていたものであって、その生徒は兵籍に編入されていたほか、その召募、採用をはじめ、その身分、修業期間及び教科内容等に至るまで、すべて予士校令その他の関係法令に基づいて運営処理されていたこと、予士校生徒の召募及び入校期日等については、戦況の変化等に伴って随時柔軟な運用措置がとられ、特に昭和一九年及び昭和二〇年の戦争末期においては、予士校令所定の原則が大きく崩れて来てはいたが、召募の都度陸軍省告示が発せられ、これによってその召募試験の採用検査期日、入校時期等が定められていたことは変りがなかったこと、そして、予士校生徒は、召募に関する陸軍省告示に定められた入校期日に入校したものとしてその身分を与えられ、かつ、予士校生徒としての兵籍に編入される取り扱いがなされており、前記昭和一九年陸軍省告示第八号によって召募された「昭和二〇年入校せしむべき」予士校生徒(六一期生)のうち、同年四月入校とされていた陸軍部外からの採用者については、採用決定後に予士校の学校長から同年二月に着校すべき旨命ぜられて、当該入校期日前のいわゆる早期着校の措置がとられ、これら早期着校組の採用者を予士校内に収容して特別の補習的な教育訓練が施されたのであるが、これらのものについても予士校生徒としての身分及び兵籍については従前と変わるところがなく、同年四月に入校したものとして取り扱われたこと等がいずれも認められる。そして、右認定の事情に徴すれば、被告人は、予士校生徒の兵籍に編入されたものと認められないことは前説示のとおりであるばかりでなく、前記昭和一九年陸軍省告示第四八号によって召募された「昭和二〇年一〇月入校せしむべき」予士校生徒の召募試験を受験してこれに合格し、昭和二〇年七月中予士校に早期着校して予士校内で教育訓練を受けていたが、終戦となり右入校期日前に原隊に復帰してそこから復員したというものであるから、そのとおりであったとしても、前記の法的な意味において予士校に入校したものというわけにはいかない。

したがって、前同様の法的な意味で、被告人は予士校を中途退学したものともいえないことは、叙上の説明によってすでに明らかであるから、昭和四七年八月六日施行の石川県小松市長選挙に立候補した被告人が、当該各新聞の紙面に予士校を中途退学した趣旨の「陸士中退」と掲載されたのは、当該公職の候補者として右の事実に反する虚偽事項が紹介されたものといわざるをえない。

二、予士校中退の虚偽性の認識

被告人は、法的な意味で、正式に予士校に入校しておらず、また、予士校を中途退学したものでないとしても、前記小松市長選挙に立候補した当時、これを果してどのように考えていたのか、すなわち、被告人は叙上のとおり予士校を中途退学した旨掲載された新聞記事が虚偽の事項であることを認識していたのか否かを更に検討する必要がある。

当裁判所が取り調べた関係各証拠によると、次の各事実が認められる。

1 予士校は、戦争の終末段階に至って、各地に分散疎開されるなどして、かなり変則的な教育訓練がなされていたものと推測されるが、それまで予士校生徒は、埼玉県朝霞町所在の予士校生徒舎に起居し、所定の学科、術科の教育訓練を受け、かつ、その生活を通じて予士校生徒として必要な起居動作、心得等の指導訓練が続けられたこと、また、予士校に着校したものは、正式の入校以前であっても予士校生徒と同様の処遇を受けて、予士校内に起居し、当該本人自身の意識行動としては、正式な予士校生徒と何ら変わるところはなかったこと、被告人においても、正式の入校前に早期着校しているとすると、そのときから予士校生徒と同様の処遇を受け、当時在校していた六一期生に混じって同様の学科・術科の教育訓練を施されるなどして、最早や予士校生徒になったという自意識を十分持つに至ったであろうこと、

2(一) 敗戦後日本を統治した連合国最高司令官は、昭和二一年一月四日日本政府宛に覚書を発したが、その内容の一部は左記のとおりであること、

二 「ポツダム宣言」ノ右条項ヲ実行スル為、茲ニ日本政府ニ対シ左ニ該当シタル一切ノ者ヲ公職ヨリ罷免シ且官職ヨリ排除スベキコトヲ命ズ

a 軍国主義的国家主義及侵略ノ活発ナル主唱者

b 一切ノ日本ノ極端ナル国家主義的団体、暴力主義的団体、又ハ秘密愛国団体及其ノ機関又ハ関係団体ノ有力分子

c 大政翼賛会、翼賛政治会又ハ大日本政府会ノ活動ニ於ケル有力分子

一〇 官職ヨリ好マシカラザル者ガ一掃セラルルコトヲ確実ナラシムル為左ノ措置ヲ実施スルモノトスル

a 日本帝国政府ハ各省又ハ其ノ他ノ適当ナル各機関ニ対シ其ノ権限内ニ在ル第三項所定ノ地位ヨリ経歴上附属書A号列挙ノ種類ニ属シタルコト明ラカナルカ、又ハ此ノ種ノ者タリシコト判明シ居ル者ヲ罷免スベキコトヲ訓令ス

後ニ掲グ調査表ハ罷免ノ通告以前ニ本人ヨリ之ヲ提出セシム

b 日本帝国政府ハ更ニ各省又ハ其ノ他ノ適当ナル各機関ニ対シ附属書B号所定ノ調査表ヲ作成シ且其ノ権限内ニ在ル第三項所定ノ地位ノ総テノ現職者及其ノ権限内ニ在ル官職ノ将来ノ志願者ニ対シ之ヲ配布スベキコトヲ訓令ス、右調査表ヲ審査ノ上其ノ結果及其ノ他政府ノ知リ得タル一切ノ事項ニ基キ本指令ノ規定ニ従ヒ該当者ヲ罷免シ又ハ其ノ就職ヲ拒否ス

(中略)

一七 本指令所定ノ一切ノ調査表、報告書若ハ申請書ノ故意ノ虚偽記載又ハ此等ノ中ニ於ケル充分且完全ナル発表ノ怠惰ハ降伏条件ノ違反トシテ連合国最高司令官之ヲ処罰スルコトヲ得ベシ更ニ日本帝国政府ハ右ノ如キ故意ノ虚偽記載又ハ不発表ニ対シ日本裁判所ニ於テ日本法律ニヨリ適当ナル処罰ヲ為スニ必要ナル一切ノ規定ヲ為シ且ツ起訴ヲ行フモノトスル

(中略)

附属書B号

調査表

(中略)

B 職業及軍務ノ履歴

一四 一九三一年一月一日以後在任シタル一切ノ地位ヲ含ム職業ノ履歴ヲ下ニ記セ、官職又ハ軍務ヲ報告スルニ当リテハ時期ノ如何ヲ問ワズ其ノ保有シタルコトアル総テノ階級ヲ記セ

(二) 右連合国最高司令官覚書に基づき、日本政府は昭和二二年一月四日勅令第一号を公布したが、その内容の一部は、左記のとおりであったこと、

第四条 覚書該当者としての指定は、内閣総理大臣の定める公職の区分に従い、内閣総理大臣又は地方長官が公職適否審査委員会の審査の結果に基づいて、これを行なう。

第六条 覚書該当者は、公選による公職については、その候補者となることができない。

第七条 内閣総理大臣又は地方長官は、第四条の指定に関して、内閣総理大臣の定めるところにより調査表を徴しなければならない。

前項の規定により徴した調査表は、直ちにこれを関係公職適否審査委員会に送付しなければならない。

第八条 (一、二項略)

公選による公職の候補者について、届出又は推薦届出を必要とする場合においては、届出又は推薦届出をしようとする者は、選挙長その他これに準ずる者に対し、候補者となるべき者が覚書該当者でないことを証する確認書の写を併せて提出しなければならない。

第三項に規定する確認書は、内閣総理大臣の定めるところにより本人の調査表に関する公職適否審査委員会の結果に基づいて、内閣総理大臣又は地方長官がこれを交付する。

第一五条 左の各号の一に該当する者は、これを三年以下の懲役、若しくは禁錮又は一万五千円以下の罰金に処する。

一 第七条第一項の調査表の重要な事項について虚偽の記載をし又は事実をかくした記載をした者

三 第七条第三項の規定により資料の提出又は事実の証明を求められ、これに応じないか、又は重要な事項についての虚偽の資料若しくは事実をかくした資料の提出又は虚偽の説明若しくは事実をかくした説明をした者

前項の規定により刑罰に処せられた者で覚書該当者以外のものは他の法令による外その現に占めたる公職を失い、又は新たな公職につくことができない。

前項のものは公選による公職の候補者となることができない。現にその候補者たる者は、候補者たることを辞したものとみなす。

(三) 右勅令第一号は、昭和二七年四月二一日法律第九四号「公職に関する就職禁止・退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」により廃止されるまで効力を有し、現に適否審査が行われたこと、

(四) 市町村役場は、適否審査の結果の公報を受けたときは、直ちにこれを掲示しなければならず、また、適否審査の結果については公衆が何時でもこれを知りうるように準備されており、公衆の監視のもとになされていたこと、

(五) 被告人は、昭和二六年四月施行の小松市議会議員選挙に立候補するに際し、右覚書該当者でないことを証する書面を提出する必要が生じたため、当時の社会党小松支部長浅川修三に自己の軍務経歴事項、すなわち特幹隊に入隊し、その訓練修了後、予士校に入校し、そこで終戦を迎え中退したことを説明し、これを当該調査表に記載してもらったうえ、同人を介して同年三月石川県知事に対して小松市議会議員立候補者適否審査の申請をし、石川県公職適否審査委員会の適否審査の結果、同年四月七日石川県公報に小松市議会議員に立候補する資格があるとして被告人の氏名が公告されたこと、また、その際、右審査委員会から被告人の経歴事項が虚偽であると指摘されたようなことは全くなかったこと、

(六) なお、被告人は、右の公職適否審査は厳しいものであって、その経歴事項の記載に虚偽、脱漏があると当選しても失格し、又は懲役刑になる場合もあることを十分知悉していたこと、

3 被告人は、前記(五)のとおり小松市議会議員選挙に立候補資格を認められて、同選挙に立候補し、その際「陸士中退」との経歴を初めて公表して以来、本件の昭和四七年八月六日施行の小松市長選挙に至るまで、小松市議会議員及び石川県議会議員の各選挙に立候補して五回当選し、その都度一貫して同様の経歴を公表して来たものであるのに、その間、他のものから、右経歴に疑問があるとする声があがったことは一度もなく、前記小松市長選挙に立候補した際、初めてその「陸士中退」の経歴事項についての虚偽性が問題とされるに至ったこと、

以上の各事実が認められ、右認定の事実関係、特に予士校内の生活状況、占領下の制度、戦後における被告人の経歴公表状況等を総合考察すると、本件について、被告人が前記小松市長選挙に関する記事を取材中の新聞記者に対し、自己の候補者としての経歴事項に関し、予士校を中途退学した旨各取材させたとする検察官主張の時期において、被告人が自己の右経歴事項について虚偽であることを認識していたものとは認め難い。

三、まとめ

以上の説示によって明らかなとおり、本件公訴事実中、被告人が陸士中退に関する虚偽の経歴事項を公表した旨の事実については、その当時、被告人において、右の経歴事項が虚偽であることを認識していたものとは認められないから、その余の点について判断するまでもなく、当該犯罪の証明が十分でないことに帰する。

第二専門学校入学者検定規程による試験検定関係(公訴事実中(三)に関する部分)

一、公職選挙法二三五条一項にいわゆる「経歴」と専門学校入学者検定規程による試験検定(以下、「専検」という。)合格

「専検に合格したこと(以下、「専検合格」という。)」は、公職選挙法二三五条一項にいわゆる「経歴」に含まれるものなのか否かの点について考察するに、専検とは、後記二の2項で詳述するとおり、旧制中学校又は修学年限四年以上の高等女学校(ただし、高等女学校については、昭和一八年に一部改正された。以下単に「高等女学校」という。)を卒業しないで旧制専門学校の本科に入学する者のために設けられた試験検定制度(ただし、無試験検定制度については本件と関係がないのでこれを省略する。)であり、旧学制下においては、専検合格者を実質的に旧制中学校又は高等女学校の卒業者と同等に扱っていたのである。そして、「専検合格」は、その学歴の点で、旧制中学校卒業又は高等女学校卒業と実質的に同列に位置することになり、単に進学上右の入学資格が認められていただけでなく、一般的に右の中学校卒業等と同等かつ同列に評価され、少なくともこれに準じた取扱いを受けて来たのである。したがって、前記のような意義を有する「専検合格」という事項を公職選挙法二三五条一項にいわゆる「経歴」に含めて解釈することに何らの問題もない。

二、被告人の専検合格の有無

1 争点の整理

(一) 検察官は、専検合格者又はその一部の学科目に合格点を得た者については文部省初等中等教育局高等学校教育課にこれを証明する基本資料が厳重に保管されているのに、その合格者台帳及び一部科目合格者の個人別カードに被告人の氏名が記載されていないし、また、被告人は専検合格者又は一部科目合格者に交付される証明書を所持していないから、専検に合格しているとはいえないし、また、その一部科目に合格しているということもできない旨主張する。

(二) ところで、専検合格の点について、被告人側の主張するところは、要するに、被告人は、かつて徳島県下に出稼中であった昭和一八年四月初旬ころ、徳島県庁内の試験場で三日間にわたって専検の一部科目を受験し、その結果、国語、漢文、歴史、地理の四科目と修身又は公民科のうちの一科目、合計五科目に合格し、当時文部省から右五科目についての合格証明書を受け取ったが、その証明書はいつの間にか無くしてしまったというのであって、被告人が専検の全科目を受験してこれに合格したというものでないことは、右の主張自体から明白であり、また、被告人が専検の全科目に合格したものでないことは、当裁判所で取り調べた関係各証拠に照らして疑いないところである。

(三) したがって、本件においては、被告人側の主張する専検の一部科目の合格の有無に限定して検討すれば足りることになるわけであるが、以下、専検合格の意義をはじめ、問題とされる諸点について、順次検討することとする。

2 専検合格の意義及び基本資料

(一) 《証拠省略》によると、次の各事実が認められる。すなわち、

(1) 専検は、大正一三年一〇月一一日文部省令第二二号専門学校入学者検定規程により、旧制中学校又は修学年限四年以上の高等女学校(以下、高等女学校については省略する。)を卒業しないで専門学校の本科に入学する者のために設けられた学力検定制度であって、その検定は試験検定と無試験検定とに分けられて、大正一三年から昭和二五年まで実施されていたこと、そして、右の試験検定は、当時の中学校の学科目中実業、音楽、作業科、体操を除く他の学科目について、その卒業程度で毎年少なくとも一回行われており、専検合格とは、右の試験検定に合格したこと、すなわち、その学科目全部について合格点を得たことを意味するものである(同規程七条)こと、

(2) ところで、右試験検定に合格した専検合格者については、その氏名等を記載した「合格者台帳」が、また、右試験検定の受験者でその受験学科目中に合格点を得たものがあるとき、いわゆる科目合格者については、その合格科目を記載した「個人別カード」が当該試験検定の都度、それぞれ作成され、これが文部省内に引続き保管されている外、右試験検定に合格した者には、前記規程所定の第三号書式による「合格証書」が、また、その科目合格者には、同第四号書式による「証明書」がそれぞれ交付されていたこと、

(3) しかし、現在、文部省内に保管されている前記合格者台帳には被告人の氏名が記載されておらず、また、前記科目合格者の個人別カード中にも被告人のものは見当らないこと、そして、被告人の手許には右科目合格者に交付される証明書が現存せず、かつ、その過去における存否も定かでないこと、

(4) 更に、文部省内に保管されている前記合格者台帳及び個人別カードは、いずれも鉄製、又は木製の保管箱内に収納され、また、その担当者が交代する際には、引継ぎがなされており、一般の私的な閲覧等も原則として許可されない取扱状況にあるなど、その管理保存についてはかなり厳重に行われていること、

(5) ところが、前記個人別カードについては、一連番号が付されておらず、また、その総数も明確でなく、したがって、係員の交代の際にもその都度枚数等を明示して引き継がれて来たものでないこと、その保管場所も長年月の間に度々変更されているうえ、戦時中の状況はもちろん昭和四五年以前の具体的な保管状況等は明らかでないこと(前記証人須磨矗は、昭和四五年以降文部省初等中等教育局高等学校教育科の検定係長として、前記資料の保管を担当しているが、それ以前の具体的保管状況等については知らない旨供述しており、他に右保管状況を知り得る何らの証拠もない。)、しかも、文部省の当該事務担当者においては、前記合格者台帳及び個人別カード中に該当者が見当らない場合であっても、合格を証明する書面の提示があれば、新たにその合格証明書を発行する意向であること

などが認められる。

(二) 右認定の事実を総合して考えると、専検の科目合格についての基本的な証明資料としては、文部省に保管されている個人別カードをまずあげるべきことはいうまでもないのであるが、右の個人別カードについては、その具体的な保管状況等に徴し、これがすべて完全であるとして、紛失等による欠落の可能性が全くないものとまでは断言できない。また、被告人がかつて交付を受けた旨主張する被告人自身の科目合格の証明書についても、これが現存しないからといって、被告人においてこれを紛失するなどした余地のないものと断定することはできない。結局、文部省で保管する個人別カード中に被告人のものがなく、また、被告人が科目合格の証明書を所持していないことを理由にして、被告人が専検の一部科目についても合格した事実はないと断定することはできないものと考えられる。

3 専検受験及び一部科目合格の可能性

(一) 被告人がその主張するとおり専検の一部科目を受験し、これに合格したか否かの点について更に検討するに、《証拠省略》によると、次の各事実が認められる。

(1) 被告人は、かつて郷里の日末尋常高等小学校高等科を卒業後農業に従事し、その間、昭和一六年から昭和一九年まで毎年一一月ころから翌年四月ころにかけて、徳島県板野郡撫養町才田所在の多智花酒造株式会社まで杜氏の手伝いとして出稼ぎに出されていたが、その出稼ぎ先でも講義録等により寸暇を惜しんで勉強を続けていたこと、当時右出稼ぎ先での仕事はかなり忙しいものであったが、三月下旬から四月初旬ころの後片付けの時期には必ずしも休暇のとれないような状況にはなかったこと、

(2) 前記撫養町と徳島市との間には、当時国鉄列車とバスが運行していて、列車での所要時間は約三〇分であり、また、前記会社から国鉄撫養駅までは徒歩で約一〇分程度の近い距離にあったので、被告人が当時休暇をとって前記会社から徳島市内まで出かけるのに、場所的・時間的には比較的容易であったこと、

(3) 被告人が専検を受験したと主張する昭和一八年四月初旬には、昭和一八年文部省告示第三〇号(同年二月六日付)により、(イ) 試験施行場所 徳島市を含む全国道府県庁所在地、(ロ) 試験施行日時割(男子)昭和一八年四月一日―外国語、図画、同月二日―修身、公民科、同月三日―国語、漢文、同月四日―歴史、地理、同月五日―数学、物理、同月六日―化学、博物と定められ、右告示のとおり専検が実施されたこと、

(4) なお、被告人は、郷里の日末尋常高等小学校の尋常科六年及び同高等科二年の全課程を通じ優秀な成績を修めて卒業したが、その後家庭の事情から家業(農業)に従事することを余儀なくされて、上級校へ進学できなかったため、講義録等により、独学で中学課程の学習を続けていたこと、そして、昭和一九年には、当時中学校四年以上の終了者らが多数を占めた特幹生の採用試験に合格し、翌二〇年二月特幹隊に入隊後も優秀な成績でその教育訓練を終了したこと

(二) 以上認定の事実関係によれば、被告人には、その主張するとおり、昭和一八年四月初旬徳島市内で施行された専検の一部科目を受験することについて、場所的・時間的余地がなかったとはいえないし、また、当時その科目の一部である国語、漢文、歴史、地理のほか修身又は公民科の試験に合格点を得る能力がなかったと断定することもできない(更に、被告人の検察官に対する供述調書中の専検に関する供述記載部分は、その受験日時・場所及び科目等の点がいずれも前記(一)の(3)で認定した客観的事実とよく符合しているうえ、専検の一部科目に合格したものでも、その証明書が貰える旨記載されているなど、そのような事実を自ら体験したものでなければ、説明できないのではないかとさえ窺われる事項までも記載されている。)。したがって、被告人が、その主張するとおり、専検の一部科目を受験した事実についてはこれを肯認するのに格別支障がないところであり、また、被告人がその一部科目に合格したとする事実についても、そのような事実はないものと断定するわけにいかないことに帰する。

三、北国新聞記者に対する専検合格の発言

1 被告人の発言状況とその意味

(一) 検察官は、昭和四七年七月三〇日付北国新聞朝刊第一三面に被告人が専検に合格している旨掲載されたのは、同月下旬、被告人が当時本件小松市長選挙に関する取材を担当していた同新聞社の記者岸厳の取材に応じ、専検に合格している旨述べたことによるものであると主張するので検討するに、右新聞の紙面に同趣旨の記事が掲載されたこと、当時同記者が同選挙関係の取材を担当していたことは、当裁判所で取り調べた前記新聞(朝刊)及び北国新聞社編集局長田中義久作成の上申書によって明らかである。そこで、更に、右の新聞記事が掲載されるに至った当時の被告人の具体的発言状況について考察するに、《証拠省略》によると、次のような各事実が認められる。すなわち、

(1) 被告人は、昭和四七年七月一四日に本件小松市長選挙に立候補する旨の声明をした後、支援団体等との連絡や挨拶回りなどをし、同市本町四丁目五一番地所在の教育労働会館にも度々立ち寄っていたこと、

(2) そして、同月二〇日ころの昼近いころ、同会館一階の印刷室で、同市教職員組合書記の沖村幸子が印刷の作業をしていた際、被告人が外から上着を抱え「暑い、暑い」と言いながら同室に入って来て、その片隈の水道蛇口に近付いたところ、北国新聞社の岸厳記者が被告人の後を追うようにして同室内に入って来て、早速被告人に問いかけ、そこで同記者と被告人との間に次のような問答が交わされたこと、

記者「経歴についてお聞きしたい。」

被告人「陸士中退。」

記者「その前の学校はどこを出たんですか。」

被告人「日末高等小学校しか行っておらん。」

記者「高等小学校だけで陸士へ行けるのか。」

被告人「専検あがっておるよ、ばかにするな。」

(3) その際、被告人にとって、同記者の最後の質問はいかにも人を侮辱しているように感じたため、半ば腹立ちまぎれに答えたものであるのに、同記者は、その返事を聞くと同時に質問を止めて、その場から立ち去ったこと、そして、被告人と同記者との間には、当時右のやりとりがあっただけで、その後前記記事を掲載した同月三〇日付北国新聞の朝刊が発行されるまで、専検合格に関する何らの話合いもなかったこと

などが認められる。なお、検察官は、被告人が北国新聞社の岸記者の取材に応じた時期は同月二〇日ころではなく、同月下旬である旨主張しており、被告人の検察官に対する供述調書中にも被告人の供述として、検察官の右主張に沿う記載(そこには同年七月二八、九日ころとされている)がなされている。しかし、同供述調書中には、被告人がその際保守調整問題(小田清孝と竹田又男との立候補一本化の問題)の噂についても話した旨記載されているが、他の関係証拠によると、右の保守調整問題は同月二七日にはすでに決着がつき、その旨の新聞報道もなされて周知の事実となっていたことが明らかであり、また、他に検察官の右主張を裏付けるに足りる客観的証拠もないことからすると、被告人の前記供述調書中の当該供述記載部分は正確なものとは認められないし、当裁判所で取り調べた各証拠を逐一仔細に検討しても前記認定を妨げるに足りる証拠はない。

(二) 右認定の具体的状況から明らかなとおり、被告人は、北国新聞社の岸記者から学歴について質問されたのに対し、「専検あがっておるよ。」云々という言葉を発して答えただけであるが、被告人の右発言内容は、社会通念上、被告人自身が「専検に合格している。」ことを意味するものと解せられる。そして、前記岸記者においても、被告人の前記発言内容を右と同趣旨に理解し、これをその後本件小松市長選挙に立候補した被告人の経歴事項についての一資料として取り扱った結果、前記北国新聞の朝刊に被告人が専検に合格している旨の当該候補者紹介記事が掲載されるに至ったものと考えられる。

2 発言内容の虚偽性

叙上のとおり、被告人は、専検の全科目に合格した専検合格者ではなく、また、専検の一部科目の合格をもって専検合格とはいえないのに、前記岸記者に対し、専検に合格していることを意味する発言をしたものである以上、本件においては、最早や被告人が専検の一部科目に合格しているか否かの点について判断するまでもなく、被告人の前記発言内容中専検に合格しているとした部分は虚偽であるといわねばならないし、更に、被告人は、右の発言をしたことによって、自己の経歴に関し虚偽の事項を表示したものといわねばならない。

四、専検合格の公表行為及び公表意思の存否

1 「虚偽の事項を公にした者」の意義

(一) 被告人が前認定のとおり北国新聞社の岸厳記者に対し専検に合格している旨発言したことによって、被告人は、公職選挙法二三五条一項にいわゆる「虚偽の事項を公にした者」に該当するのか否かの点について考察するに、まず、右のいわゆる「公にした」とは、不特定又は多数のものに対して事実を表示することをいうのであって、取材活動に従事中の新聞記者に対し、その取材に応じて質問に答え、その結果、当該新聞記者の得た情報資料によって新聞に掲載させることが、右の「公にした」との概念に含まれることはいうまでもない。

(二) しかし、この場合、外形的には新聞記者の取材に応じる行為があったとしても、右の「虚偽の事項を公にした者」というためには、当該被取材者において、その際、当該新聞記者の取材に応じているという意識、換言すれば、自己の当該新聞記者に対する虚偽事項についての発言が、新聞記事となって掲載されることがあるのを認識していることを要するものと解せられる。

2 被告人の発言についての法的評価

(一) 一般に、広く市販され、多数の購読者を持つ新聞(北国新聞もその一つである)についていうならば、その新聞記者は、つねに各担当分野の情報収集(取材)を意図していることは当然であり、特に、その私的用件については格別、間近な公職選挙に関する取材担当の新聞記者が、当該選挙に立候補することを表明しているものに接触して、質問するような場合には、すべて当該選挙に関する取材行為の一環として行なっているというほかなく、また、その立候補予定者としても、相手方が新聞記者であることを知る以上、通常の事態である限り、その意図するところを容易に察知し得るものと考えられる。

(二) しかし、前記三、の1項で認定説示したとおり、被告人が前記岸記者に対してなした当該発言は、被告人が、小松市内の教育労働会館一階印刷室に立寄った直後、突然同記者から自己の「陸士中退」に関連する学歴について質問され、同記者から侮辱されたものと感じて、いわば腹立ちまぎれに専検合格に言及したのにすぎないものであるから、その際、被告人のなした専検合格についての発言は、当該発言時及びその前後の状況、その場の雰囲気、問答内容等に徴し、著しく平静を欠いた異常な事態のもとでなされたものと認められ、被告人において、その際、右発言内容までもそのまま新聞記事に掲載されて、公表されるであろうことを認識していたものとは認め難い。

五、まとめ

以上の説示によって明らかなとおり、被告人は、自己の経歴に関し、専検に合格した旨の「虚偽の事項を公にした者」とはいえないから、本件公訴事実中専検関係については、すでにその余の点の判断をするまでもなく、犯罪の証明が十分でないことに帰する。

第三結び

叙上の説明によってすでに明らかなとおり、本件公訴事実については、当裁判所で取り調べた関係各証拠を逐一仔細に精査検討しても、これを肯認するに足りる証拠がなく、犯罪の証明がないことに帰着するので、刑事訴訟法三三六条に則り、被告人に対し、無罪の言渡しをする。

(公訴権濫用に関する判断)

弁護人は、本件の公訴の提起は、犯罪の嫌疑がないのにかかわらず革新市長の弾圧を目的とする政治的意図をもってなしたものであり、かつ、真の争点たる予士校中退及び専検合格の事実の存否は、いずれも起訴に先立つこと約三〇年以前のことであって、最高裁大法廷のいわゆる「高田判決」の精神に鑑み極めて違法不当なものであるから、公訴権を濫用したものとして公訴棄却の裁判をなすべきである旨主張する。

ところで、公訴提起の権能は、原則として検察官の独占するところであり、かつ、起訴するか否かについても検察官の広範囲な裁量に委ねられているところであるが、もとより恣意の許されないことはいうまでもなく、検察官が全く犯罪の嫌疑がないことが明白であるのにことさらに公訴を提起した場合には、公訴提起の手続に違反したものとして判決により公訴を棄却すべきである(刑訴法三三八条四号)という理論は傾聴に値するところである。

しかしながら、本件においては、その前提事実を認めることができない。すなわち、当裁判所で取り調べた各証拠によると、検察官によってなされた本件捜査の端緒は、かつて石川県羽咋市長選挙にからみ、故なく収賄容疑があるとして告発状写等を頒布した廉で、名誉毀損罪に問われ、有罪となった山田誠児からの告発によるものであり、また、その捜査中に本件小松市長選挙に被告人の対立候補として立候補した竹田又男派の者からも告発がなされてはいたが、検察官としては、種々捜査を遂げ、それまでに入手した関係各証拠、特に、本件陸士中退の点については、被告人の予士校在校に関する記録がなく、また、被告人が入校したとする時期に予士校生徒が入校した事実がないことを示す証拠の存在及び被告人の取り調べ結果等、本件専検合格の点についても、被告人の専検合格又はその一部科目の合格に関する記録のないことを示す証拠の存在及び被告人の主張どおり一部の科目に合格していても専検合格といえないことなどを根拠に起訴されたものであることが十分推認されるのであって、本件において、弁護人の主張のように検察官が被告人に犯罪の嫌疑のないことが明白であるのにもっぱら政治的意図から起訴したものであるとはとうてい認められない。

更に、いわゆる「高田判決」を根拠として、本件起訴を不当とする点について考察するに、確かに本件の重要な争点の幾つかは起訴の約三〇年前に発生した事実に関するものであるが、本件は、被告人が昭和四七年八月六日施行の小松市長選挙に立候補するに際し、その直前において虚偽の経歴事項を公表した旨の公職選挙法違反の各事実について、昭和四八年三月一三日起訴したものであって、いわゆる「高田判決」とは事案を異にしていることが明らかであるから、前記指摘の点をとらえて本件起訴が違法不当であるというわけにいかない。

したがって、弁護人の主張は、その前提において失当であって採用できない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川瀬勝一 裁判官 阿部文洋 安藤裕子)

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